May 27, 2011
不動産投資と生命保険
不動産投資は、生命保険の代わりになるという。これは、団体信用生命保険の不動産投資ローンを結んだ場合を言うようです。つまり、住宅ローンと同じ理屈だ。自分が死亡した場合には、不動産投資ローンを返済される仕組みですので、借金がなく、不動産投資物件が手に入るということだ。中古ワンルームマンションや中古ファミリータイプマンションに投資する場合は思い切ってアパート経営をする必要があります。それまでは、不動産投資信託運用にしておいた方が良い。なぜ、アパート経営がいいかというと、中古ワンルームマンションなどに比べ、意思決定のスピードが全然違うからだ。自分で決めることができるのだ。
和歌山県田辺市は、従来の浸水予想にとらわれない新たな津波避難路づくりの検討を始めた。東日本大震災を受け、想定外の津波にも対応できるようにする。真砂充敏市長は「安全安心のまちづくりを目指して防災対策に全力を注ぎたい」と話している。
田辺市は5月、沿岸部と河川沿いに隣接する64町内会と津波対策の懇談会を開き、避難路や避難場所の整備について要望の提出を求めた。町内会の要望を受け、7カ所で新たな避難路の整備が必要と判断した。
3日には真砂市長が7カ所を現場視察した。最初に訪れたのは芳養松原2丁目のJR芳養駅。駅前の住民が駅裏側の高台の団地に素早く避難できるよう、跨線橋(こせんきょう)から裏側に通れる道を付けられるかどうか検討した。
目良の元水産試験場の裏付近では、浸水予測地帯近くを渡って避難する現場があり、より安全な避難路を整備できるか見て回った。
湊の八幡神社、愛宕山配水池付近では会津川の氾濫を考慮した津波対策として避難路の整備を検討。闘鶏神社(湊)は従来の想定では津波が浸水する地域とされていないが、街中の避難先として神社近くの森にある里道を避難路に仕立て、高台の団地に逃げられる方法を模索するという。
このほか、文里1丁目の公園では、もともと地元が整備した避難路からさらに高台へと避難できないかと視察した。昭和南海地震で津波被害を受けた新庄町では、跡之浦の千鳥ケ丘団地から新庄中学校グラウンドへの避難路、鳥ノ巣集会場近くでも高台への避難路を検討した。
市の沿岸部には地元町内会が市の補助を受けて整備した避難路が17カ所あり、副市長や総務部長らが7月に現場を視察した。それぞれの避難路の課題を調べ、あれば対応していく。
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このところ、由良川の水が濁った状況が続いている。7月20日ごろに台風6号が接近したあとからずっとこの状態で、アユ漁に影響が出るなどしている。
国交省福知山河川国道事務所によると、台風による雨で増水した上流の支流から濁った水が流れ込み、台風のあとも、局地的な集中豪雨があったりしているためではないかという。
成長したアユは、多少の濁りで死ぬようなことはないが、きれいな水を求めてまばらになる。このため、友釣りでは釣れにくくなり、網漁でも量が期待できない。
由良川漁業協同組合によると、本流で漁をする人はまれで「このところ組合に持ち込まれるアユは支流で取れたものばかり。本流のものはいない」と話し、今の状況を懸念。アユ漁を楽しみにしている人からは「何とかならないのか」といった声も上がっている。
和歌山県田辺市とJA紀南でつくる紀州田辺うめ振興協議会(会長=真砂充敏田辺市長)は8月の1カ月間、モニターに梅干しを食べてもらい、夏バテや熱中症予防の効果を調べる。協議会は「健康食品としての梅干しのアピールにつなげたい」と話す。
昨年度に引き続いて取り組む「梅干し食べようプロジェクト」。昨年度は県内外から広く募り体重や腹囲、体脂肪などの変化を調査した。本年度は生産者に挑戦してもらおうと、JA紀南の組合員から親子モニターを募った。
応募した34組71人が8月初旬から9月初旬の1カ月間、JA紀南が販売している「しそ漬け 塩分8%梅干し」を毎日1、2粒食べ、夏バテや熱中症の予防効果の感想や体重、腹囲の変化などのアンケートに答える。
協議会は疲労回復や整腸作用など健康食品としての梅の良さをモニター調査から検証し、梅の消費拡大につなげようと取り組んでいる。
昨年度は県内外のモニター125人に50日間、梅干しを毎日2粒食べてもらう調査を実施。回答があった105人中、7割が体重が減り、6割は腹囲が縮小したと答えた。また、体調変化の感想として「疲労回復効果があった」「体調が改善された」「ダイエット効果が見られた」といった声が寄せられた。
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昭和の大合併で刑事事件にまでなった和歌山県白浜町西富田地域の騒動を記録に残そうと、合併反対派の急先鋒(せんぽう)だった同町堅田、尾崎覚四郎さん(85)が回顧録を作っている。尾崎さんは「一度合併した地域を切り離すとは、いまだに納得できない」と話している。
尾崎さんは2005年に前立腺がんとなり、医師に「余命わずか」と宣告されたのを機に、人生を振り返る回顧録を書くことを思い立った。欠かせないのが西富田地域の合併騒動だった。
昭和の大合併で、現在は白浜町になっている東富田村、西富田村、南富田村、北富田村は4村での合併を目指したが、私有財産や役場建設場所の問題がまとまらず、西富田、南富田の2村と白浜町が合併する案が浮上した。協議が進められたが、西富田村は白浜町との合併は難しいと判断し1955年、北側に隣接する田辺市との合併を決めた。その後すぐ、南富田村と白浜町が合併協議を進めた。富田村誕生を目指し、東富田村と北富田村による合併協議も進んだ。
「白浜は観光地で、西富田とは生活や文化が違った。それに西富田は財政的に厳しい上に、安久川の改修をしなければならなかった。その財政状況から、白浜は西富田との合併に消極的だったと思う。白浜は西富田を見下げており、それに対して感情的にもなっていた」と尾崎さんは西富田が田辺に向いた理由を話す。
その後、2年たった57年、白浜町と合併した南富田が飛び地になっていたことを解消する目的で田辺市から西富田を分離し、白浜町、富田村との合併を県知事が勧告。これに対し、西富田の住民百数十人が反対委員会を結成した。尾崎さんは委員会の副委員長を務めた。
西富田の分離には田辺市議会でも賛否が割れた。当初は反対が優勢だったが、反対議員が賛成に回ったことで可決した。
これに反発し、役所前の広場に集まっていた数千人の市民が議場になだれ込んだ。この混乱で、市長が辞職、後に議会は解散した。議場に乱入したことで住民約80人が警察の取り調べを受け、後に尾崎さんら4人が暴力行為と住居侵入の罪で起訴された。一審は有罪判決が言い渡され、二審の大阪高裁で逆転無罪となった。6年がかりの裁判だった。
尾崎さんは「地域住民の8割は白浜との合併に反対していた。県は民意を無視したと、いまでも思っている」と話している。
尾崎さんは回顧録を作るに当たり、このほど田辺市内の福祉施設で、当時合併を推進した県西牟婁地方事務所(現在の西牟婁振興局)の元所長、西川清さん(95)=田辺市明洋2丁目=と半世紀ぶりに対面し、当時の合併に対する考えなどを聞いた。
西川さんは「合併の案は私が作った。田辺と西富田が合併した事情は知らなかった。ただ、白浜は財政状況がよかったので、4村を抱き込んでもらえればと考えた。しかし、県や県議の間では『それは難しいだろう』という声があった」と話した。
市議会採決の際の混乱については「あんなことは全国的にも珍しかったと思う。私も西富田の人に恨まれても仕方がないと思っていた。地方事務所では職員が襲われるのではないかと、庁舎の電気を消して所長室にかたまっていた」と振り返った。
2人は半世紀前の騒動を懐かしみ、西川さんは「住民のことを考え、公務でやった」。尾崎さんは「当時は立場の違いで対立したが、遺恨はない」と話した。
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